蛇足

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zoom RSS 05月30日 リハビリ中

<<   作成日時 : 2017/05/30 06:04   >>

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A「ヤス、まだ大変そうだね」
F「貰い事故で月はまたぐとはなぁ。暗善運天……じゃなかった、安全運転は心がけないといかんね」
A「若い頃の血がまだ抜けてねえのか、お前は」
F「あっはは。ともあれ、今日はオチもない笑い話を一席。舞台はジャワ島」
A「何でか」
F「自作の人名辞典が、この間2万人に達してな」
A「……それ、電話帳じゃなかったのか」
F「時は1220年、えーっと……チンギスがまだ存命だった頃だな。ジャワ島の東に位置するトゥマペルに、トゥングル・アムトゥンという王様がおりました。まぁ、規模的には王さま云うより市長か村長くらいだったと思われる」
A「ジャワの酋長か」
F「それも地方領主レベルの。このヒトに仕えたケン・アンロックという武将がいてな。農民出身で若い頃は放蕩していたンだが、アムトゥンさんに仕えてめきめきと頭角を現し、トゥマペル軍の重鎮に出世した。一説では、アムトゥンの私生児ではなかったかとさえ云われている」
A「よくあるオハナシだね」
F「この場に泰永がいたなら出自詐称云々を云うた気もするが、そんなワケで、自分はアムトゥンの子だからトゥマペルを奪ってもいいのだー、的な発想に駆られたアンロックは、アムトゥンの妻ケン・ドゥドゥスと密通しでかした。女房とイチの部下に裏切られてはアムトゥンのお先が長かろうはずもなく討ち取られている。これが1220年のこと」
A「なむー」
F「……うん、ジャワ島だから仏式でいいのか。まぁ、人事としてのこの行いは正解で、2年後にはクルタジャヤ王を討ち取ってクディリ朝を滅ぼし、トゥマペルを王都にシンガサリ朝を興し、事実上のジャワ王を自称した」
A「うん、ジャワ島にそういう王朝があったワケな」
F「問題はそのあとでなぁ。アンロックはクルタジャヤより先に、ひとり殺しておかねばならない者を野放しにしていた。はいアキラ、誰でしょう」
A「ここまでに出てきて生き残ってるのは、アンロックの他にはドゥドゥスくらいだから……子でもいたのか?」
F「そゆこと。アムトゥンとドゥドゥスの子のアヌーサパティは、アンロックの子として育てられることになった。まぁ、アンロックにしてもアムトゥンの私生児を自称したからには異母弟だ、殺すに忍びなかったのかもしれん」
A「そういう情けをかけると、長じて父の仇を討とうとするのは当然だと思うよ」
F「つーワケでシンガサリ5年、アンロックはアヌーサパティに暗殺されている」
A「5年後?」
F「アムトゥンにせよアンロックにせよ、生年不詳なんだよ。しかし、アンロックくらいの年齢の私生児がいてもおかしくなかったアムトゥンの息子では、相応の年齢だったようでな。このあと、21年は大過なく王位にあったワケなので、アンロック暗殺時点で少なくとも十代後半、おそらく二十代だ」
A「そんな王子サマ生かしておいて、国王できるワケねーだろっ!?」
F「僕もそう思う……。興したのはアンロックだがアムトゥンはもともとトゥマペルの領主だ。アヌーサパティはフツウに国王をやっていられた。21年間は」
A「死んだのか」
F「うむ。アンロックはドゥドゥスを妻とはしたが、側室との間にトージャヤという息子がいた」
A「待てや」
F「21年経ったその日、トージャヤはアヌーサパティの元へと乗り込み『父ちゃんのナイフってまだ残ってるー?』とブチかました。自分が何をしたのか覚えていたアヌーサパティはアンロックの遺品のナイフを異母弟に渡し、そのまま討たれたという。潔いのはどっちの父親の血だろう」
A「やりきれねえ国だなぁ……。で、トージャヤが王位に就いた?」
F「就いたはいいンだが、アヌーサパティにも息子がいてなー」
A「親父と一緒に始末しろよ!?」
F「うん、さすがにトージャヤは父の轍を踏まなかった。即位して即座に命じたのは、甥のウィシュヌ・ワルダナの処刑だ。ただし、異母兄とは違い父に似た経緯で即位したトージャヤには家臣がいまひとつ服従せず、ウィシュヌの反撃にあってトゥマペルから追い落とされ、そのときに尻を槍で刺された傷がもとで死んでいる」
A「今度はあっさりだな」
F「そんなワケで王位に就いたウィシュヌは、いとこのチャンパカと国を共同統治し、まず治世と云っていい政治をした。トゥマペルがシンガサリと改称されたのもこの時代だが、ただ、時代がその治世を許さなくてな」
A「あー……元寇か」
F「うむ。モンゴルの馬蹄がジャワ島にも迫ってきていたンだ。老いたウィシュヌは息子のクルタナグラに王位を譲り、2年後に亡くなっているが、フビライからの服属要求が来たのはこの息子の時代」
A「対応、できたのか?」
F「努力はしていたな。スマトラやバリには兵を送り、チャンパの王は婚姻政策で味方に引き込んで、来たるべきモンゴルの脅威に対抗しようと画策していた。まぁ、そのせいで国内は軍費がかさんで民衆叛乱も起こるようになり、ついには配下のジャヤカトワンによって討たれ、シンガサリ朝は滅亡している。1292年のことだった」
A「約70年、アムトゥンから数えて6代か……まぁ長かったとは云えんか。で、そのジャヤカトワンって?」
F「クルタジャヤの子孫だ」
A「ここでそっち系が出てくるの!?」
F「アンロックの甘さはここにも明らかでなー……。父親だけ殺して息子を生かしておいたらどーなるかという、悪い見本にしか思えん。この辺り、アンロックはやはり百姓なんだわ」
A「冷酷になれなかった、なりきれなかったのな」
F「ヒトとしてはそれでいいんだが、王としてはなぁ。ともあれ、翌1293年、元の軍勢はジャワ島に到着し、ジャヤカトワンはチャンパカの孫のウィジャヤに迎撃を命じている。ウィジャヤはクルタナグラの娘婿だったので当然殺されそうになったが、降伏して一命を取り止めていた」
A「で、真っ先に戦地に放り出されたのか」
F「このウィジャヤがやり手でなぁ。元軍と組んでジャヤカトワンを討ち取ると、その戦闘で疲弊した元軍をもジャワ島から叩き出しているンだわ」
A「ここに来て、そういう戦上手が現れるンかい」
F「しかも、ここで天が彼に味方した。当然モンゴルは怒り狂ったが、二度めの遠征は行われずに済んでいる。翌1294年にフビライが亡くなったモンだから、それどころじゃなくなってな。1295年には国交が結ばれる始末だ」
A「ホントにやり手だな、この男」
F「ジャヤカトワンに降伏して僻地に送られたんだが、現地で食べたマジャという果物が苦かった。苦いはジャワ語でパヒトだからと、以後国号をマジャパヒトと称したとの伝説もある。マジャパヒト王朝は16世紀まで続いたから、ウィジャヤこそが最終的な勝利者と考えていいだろうな」
A「ジャヤカトワンの息子とかに討ち取られたりしてねえワケな?」
F「ジャワ島内の叛乱鎮圧に明け暮れて、1309年に陣没しているから、そっちの死因じゃなさそうだ」
A「めでたしめでたし、でいいのか?」
F「いいのかなぁ……」
A「何が不満だ」
F「ところで、ウィジャヤは、さっき云ったようにチャンパカの孫。でチャンパカはウィシュヌのいとこだ」
A「えーっと、ちょっと待てなー。ウィシュヌの親はアヌーサパティ……兄弟がいたのか?」
F「異父弟がな」
A「ハイお兄ちゃん、マジ待ちましょう。トージャヤにも子がいたンかい!?」
F「いや、トージャヤじゃない異父弟。アトゥルンという、アンロックとドゥドゥスの間に生まれた子がいてな。アトゥルンの息子がチャンパカで、つまりアンロックの孫にあたる」
A「ジャワ島70年のこの争乱は、ドゥドゥスに起因するワケですかー!?」
F「この女がいなかったら……まぁ、ジャヤカトワンではモンゴルに対抗できなかったワケだから、ジャワ島にとってどっちの未来が良かったのか、僕には判断できん。だが、ひとりの女にまかれたふたつのタネが原因だったな」
A「罪深き者、汝の名は女なり……」

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